日本のアニメが世界を席巻する影で、制作現場の構造的な課題に直面しているクリエイターは少なくありません。今回お話をうかがったのは、アニメプロデューサーの高久美知子さん。
幼少期から世界各地を転々としながら生きてきた高久さんは、最初は実写映像業界に身を置き、その後はポリゴン・ピクチュアズ、東映アニメーションといった名だたるアニメスタジオで数々の作品制作に携わってきました。その彼女は現在、28万人のクリエイターを抱える国内最大手のポートフォリオサービスを展開するforiioで、グローバルアニメ事業やクリエイター支援事業を主導しています。
なぜ彼女は、アニメ業界の本流からではなく、テック業界からアニメ業界を変えようとしているのか。幼少期の原体験から、3DCG制作においての数々の試行錯誤、そして「クリエイターが正当に報われる世界」を目指す現在に至るまでの、稀有なキャリアの歩みと信念。
取材・執筆・編集:押剣山 撮影:山田寛仁
どこへ行っても「ヨソモノ」だった
――本日はよろしくお願いします。高久さんの唯一無二のキャリアについて詳しくうかがいたいのですが、まずはご自身のバックグラウンドからお話しいただけますか?
高久美知子:よろしくお願いします。
私の原体験は、幼少期からの頻繁な転居生活にあります。アメリカのNY、マンハッタンで生まれ、その後も日本、南米のパラグアイ、チェコ、オランダなど、世界中を転々としました。一番幼少時の記憶としては、色んな人種、国籍の子どもたちが集まるプレイグループに通っていました。4歳で一度日本に戻って、その後も日本や海外を行ったり来たりしてましたね。
私自身の感覚としては、どこに行っても常に「ヨソモノ」という自覚が持っていたという記憶があります。例えば日本にいる時は「外国から来た子だ」と言われ、海外にいる時は「日本人の子」と言われます。だからこそ、周囲に馴染もうと必死に努力する一方で、物事を外側から眺める目線が自然と身についたんだと思います。今に続く、本流のど真ん中にいるより端で独自の道を歩もうという感覚は、その頃から培われてきた気がします。
その頃、海外で私を助けてくれたのはキャラクターたちでした。

――漫画やアニメを観て救われた、みたいなことでしょうか?
高久:いえ、もっと直接的です。日本に帰ったらサンリオのグッズをたくさん買って、海外の行く先々で親しくなりたい子にプレゼントしていたんです。それで実際に仲良くなれたりして、そうした体験を通じて、キャラクターが言葉や文化の違いを超えることを肌で感じてもいました。今でこそキャラクターを通じた文化交流、国際交流のようなものは当たり前になったと思うんですが、私も幼少時の実体験としてキャラクターの力は感じていました。
――そういうことだったのですね。その頃からアニメにも親しんでいたのでしょうか?
高久:ただ、同年代で日本のアニメを観て育ったという方と同時代感が全く異なるとは思います。海外生活が長かったため、私の身近にあったのは日本のアニメや漫画ではなく、ディズニー作品やピーナッツ、ムーミンといった、海外発祥の物語やキャラだったので。
特に大きかったのは、『長くつ下のピッピ』などで知られるスウェーデン人作家のアストリッド・リンドグレーンの存在で、今思えば、それが後の私自身のキャリアに大きく影響していました。母方の祖母がスウェーデンの児童文学の翻訳をしていた影響で、リンドグレーン作品やムーミンは、本当に「親戚の一員」のように身近な存在でした。
もちろん人並みには日本のアニメも観ていますが、子どもの頃に日本に帰った時の記憶としては『ドラえもん』や『サザエさん』を観ていたなあ、程度です。当時の記憶としては、親にやたらと美術館や寺社仏閣、教会などに連れ回されたことを覚えています。
キャラクターに導かれて飛び込んだアニメ業界
――高久さんは日本語と英語だけではなく、他の国の言葉も堪能なのでしょうか?
高久:人並みに話せるのは2ヶ国語だけです。外国語は好きで色々勉強してきましたが、例えばチェコに住んでいた時、チェコ語はそこまで話せませんでした。、言語は身につけられませんでしたが、親しくしてもらった現地の方たちの影響もあり、チェコのアニメーションがすごく好きになりました。
――大学はそのまま海外で入学されたのでしょうか?
高久:大学は、日本に戻って入学しました。当時、上智に比較文化学部というものがあって(現在の国際教養学部)、そこで美術史と宗教学をダブル専攻していました。
チェコやヨーロッパのカルチャーや美術にハマったものの、自分では絵が描けないというコンプレックスがあった分、「表現を生み出す時の感情」に興味を持っていました。日本の絵巻物なんかも面白くて調べていました。
――絵巻物! 渋いですね。
高久:絵巻物で言えば、鳥獣戯画なんかはよく「日本最古の漫画」とかって言われますよね。私たちが生きているこの現実社会と全然違うファンタジーの世界を絵巻物を通して行き来できると感じます。
それは例えば私にとってはスタジオジブリ作品にも通じる趣向だと思っていますが、絵巻物だけじゃなくて、能のような演劇、色んな日本の伝統文化が表現する空想力は、現代アニメとして花開いているものと同じだと思うんです。だから、自分の中での興味範囲って昔から変わってないんですよね。
――その後、仕事のキャリアとしてはどのように始まっていったのでしょうか?
高久:学生時代は雑誌の編集部でアルバイトをしたり、映像に字幕をつけたりといった経験をして、新卒で入ったのはNHKエンタープライズ(NEP)です。大学での専攻の延長として、美術や歴史に接続するようなドキュメンタリーや文化番組を作りたいと考えていました。たまたま、配属先の隣がアニメ事業部で、新人研修で『忍たま乱太郎』のアフレコ現場を見学したりもしていましたが、やはり当時の私の感覚としては、ドキュメンタリーへの傾倒が強かったです。
――そこから、どのようにアニメ業界へと舵を切っていったのですか?
高久:NEPは、自分の個人的事情で1年ほどで離れることになって。しばらくは自分のペースでフリーランスしていたのですが、フルタイム復職を考えた際に見つけたのがポリゴン・ピクチュアズだったんです。
――ゴリゴリの3DCGアニメスタジオですよね。
高久:そうなんですよね。私は決してアニメ制作をやろうと意気込んでいたわけではなく、映像制作であれば実写もCGも変わらないと勝手に思い込みながら、その当時、ポリゴン・ピクチュアズが人員募集していた、ディズニーの『くまのプーさん』の3Dアニメプロジェクトに興味を持ったからなんです。
「好きなプーさんに関われる機会は滅多にない」と考えて応募して、アニメの世界に飛び込んだんです(ポリゴン・ピクチュアズ制作『プーさんといっしょ』は、2007年からアメリカや日本で放送)。ディズニーはアメリカの会社なので、私の海外生活経験が確実に役に立つだろうという確信もありましたし。
入ってみると、3Dアニメ制作は実写とはまるで違っていて、最初は戸惑うことも多かったです。例えばドキュメンタリーなんかだと、場合によってはカメラを握った本人が撮りたいものを撮り、見せたいものを見せるという、自己完結的な制作もできます。でもアニメ、特に3DCG制作は全く違って、みんながそれぞれ小さな部品を作って、それを最後に組み立てると完成品ができる、製造業に近い感覚でした。
特に当時の3DCGは2Dアニメ業界との距離が遠くて今みたいに当たり前にハイブリッド作品が作られる状況ではなく、作画による2Dアニメと3Dアニメのスタッフ間の溝もすごく大きかったんです。今でこそ、アニメっぽいCGを指す「セルルック」表現も増えましたが、アニメのケレン味をCGでどうやって表現できるのかということをゼロベースでみんなが頭を捻っている時期だったので、試行錯誤の連続で。
私は新卒でアニメ業界に入ったわけでもなく、キャリアとしては遅れてのスタートだったので、「人の3倍の速さで成長しよう」と決めて、3人分の仕事を1人でこなすつもりで必死に働きました。そうして、徐々にプロデューサーとしての役割を担うようになりました。TVシリーズや劇場作品は、油断するとあっという間に大赤字を生み出してしまうのですが、単に高品質なものを制作するだけではなく、どうやって採算をあわせるかというところを考える立場でした。試行錯誤しながらパイプラインや制作体制を作っていった時代だったので、その時にしか体験できないダイナミックな転換点に立ち会えて、大変でしたが色々なことを学ばせてもらいました。